江戸時代

1829年(文政12年)
徳川斉昭が30歳にして水戸第九代藩主に就き、藩政改革が始まる。

斉昭公は、領内で消費する物資を自らの地で生産すれば、藩の利益となり、それが領民の財産の形成につながると考えていました。藩主に就いた当初から、その構想を抱いていたと伝えられています。とくに陶器は、身分を問わず日々の暮らしに欠かせないにもかかわらず、当時は領内で作られていませんでした。もし領内で生産できれば、他藩へ支払っていた金銭を外に出さずに済みます。この理屈は陶器だけにとどまらず、日用品全般に当てはまるものでした。そうした考えのもと、陶器の生産に目を向けられたとされています。
徳川斉昭公像(水戸城 - 大手門前)
1830年(天保元年)
藩内で陶土調査を行い、常陸太田の町田というところと、下野の小砂で陶土が発見される。

藩主就任後まもなく、斉昭公は領内に陶土がないか調査を命じました。
しかし最初の報告は「産出なし」。そこで「探し方が足りないのではないか」と再調査を命じます。
同定のための見本が必要だと考え、まず尾張藩に陶土のサンプルを依頼しました。ところが届いたのは、水簸(すいひ)された精製土でした。これでは山から採れる原土の参考になりません。
斉昭公は「例のさどき国風なれば、此方には知られざる様にと製したる土を送りたる(あの抜け目ない国柄だから、こちらに知られないよう加工した土を送ってきたのだろう)」と記しています。
そこで改めて会津藩・平戸藩に原土そのままの見本を求め、それを基準に領内を再調査させた結果、町田と小砂の二箇所で陶土が発見されました。
1833年(天保4年)
斉昭公、お手もと金(自費)で陶器製造所を開設する

陶土の産出地である町田と小砂に窯を築こうとしたが、藩内事情により実現できなかったため、初めて江戸を離れ最初の就封(帰国)の際にお手もと金で水戸城東の下町、瓦屋(瓦谷)に陶器製造所を開設しました。
また、1834年(天保5年)には、陶器焼成が軌道に乗り始め、翌年(天保6年)の春には磁器の焼成に成功したとされています。
※「就封の時、焼物をつくるように命じたが、前にも云(い)うように役人どもは承服しないので、やむなく手もと金で下町へ窯場をつくらせたのである。もっとも、陶土の出る山の近くへつくらなければ便利ではないが、このことは郡奉行の方からなにやかやといってきたので、やむなく下町へつくったまでで、ゆくゆくは陶土の出る山の近くへつくるべきである」と記しており、現代社会にも似た組織のしがらみに辟易していた様子が伺えます。

郡奉行⋯主に江戸時代の諸藩において、領内の村方行政(農政、民政、司法、年貢徴収)を一括して統括した中級藩士が務めた役職
1838年(天保9年)
七面製陶所が設置される。

神崎七面堂の下に七面製陶所を設置し、瓦屋の陶器製造所もここへ合併されました。場所は偕楽園の一部にあたり、廃藩置県の時まで操業していたと記録されています。偕楽園の開設は1842年(天保13年)。
なお、瓦屋の製造所からなのか、七面製陶所からなのかは不明であるものの、小砂での陶土が原料として舟運(しゅううん)で水戸へ運ばれていました。


右の写真は、水戸市にある常磐神社の参道脇に立てられた石碑です。かつては、常磐神社のこの南側の斜面一帯に三基の登窯などがあったとされます。
〈水戸市 - 七面製陶所跡の発掘出土品を御紹介します〉
1844年(天保15年)
(天保15年は12月に弘化へ改元)

斉昭公、幕命により致仕・謹慎となる。

斉昭公は幕命により江戸へ召喚され、致仕(隠居)・謹慎を命じられます。この背景としては、斉昭公の藩政改革(社寺改革を含む諸政策)や軍備・教育の整備などをめぐり、幕府から複数の点を詰問(きつもん)されたことが指摘されています。そのため、ここで水戸藩の天保改革は挫折し、斉昭公の長男である慶篤(よしあつ)が13歳で水戸十代藩主となります。
この処分は、藩内統制の失敗というより、幕府が政治的に抑制した措置として位置づけられることが多いです。
1849年(嘉永2年)
斉昭公の藩政参与が許される。

斉昭公が致仕・謹慎となったのち、水戸藩内では赦免(しゃめん)を求める動き(雪冤運動)が起こります。藩士を中心に、農民層にも支持が広がり、無実を訴える嘆願が断続的に行われました。こうした働きかけは、幕府への陳情という形で続けられ、江戸に所在する水戸と関係の深い諸藩の屋敷を通じて復権を求める動きへと広がっていきました。
やがて情勢の変化も重なり、斉昭公の謹慎は解かれますが、直ちに藩政へ復帰できたわけではありません。その後も藩政関与を求める嘆願が続き、最終的に一定の関与が認められるに至ります。これら一連の雪冤運動は、およそ10年にわたり断続的に続いたとされています。

斉昭公が藩政関与に戻ると、斉昭公のみならず、公の諸策をなんとしても実現したいという水戸士民の想いもあって、中断された天保の改革が再び動き出すのでした。
1851年(嘉永4年)
小砂で御用瀬戸の試焼が行われる。

斉昭公は小砂の陶土をとても喜んでいたそうで、小砂の庄屋である大金彦三郎に窯を築くことを命じられたと伝えられています。(いつ命じたかは不明。ただ、前年である1850年(嘉永3年)に大金彦三郎が築窯準備をしていたとの史実あり。)陶土が取れる山は大金彦三郎の所有するものでした。
そして、大金彦三郎が「御用(藩の公的需要)」向けの器を焼くことを願い出て、御用窯(御用瀬戸)として1851年(嘉永4年)に試焼が始まります。

これが、小砂焼の始まりです。
1854年(嘉永7年)
(12月に安政へ改元)
斉昭公の海防・軍備強化政策のもと、水戸藩は那珂湊に反射炉建設を着工する。

1853年(嘉永6年)、ペリーが日本に来航します。これを受けて幕府は海防の強化を急ぎ、同年に海防参与を設けます。斉昭公はその職に任じられました。また、翌年1854年(嘉永7年)には軍事参与にも任じられます。
そこで、水戸藩では海防強化のための反射炉が着工します。

着工に合わせて、水戸藩士が反射炉の材料となる耐火煉瓦用陶土検分のために小砂を訪問しています。

海防参与⋯海防に関する相談役(軍事顧問)のこと
1855年(安政2年)、1857年(安政4年)
安政2年、反射炉の第1炉(西炉)が完成する。(1855年)
安政4年、反射炉の第2炉(東炉)が完成する。(1857年)
この反射炉の耐火煉瓦は小砂の鉄分の少ない土に、水戸郊外千波、笠原などの土を混ぜて焼かれたものです。
なお、反射炉に使用された耐火煉瓦は4万枚といわれています。煉瓦の原料として小砂村から運ばれた土の量は1043駄(1駄は馬1頭が担ぐ量)でした。

反射炉⋯鉄製大砲を鋳造するための溶解炉
1937年(昭和12年)に復元された反射炉(あづまが丘公園 - ひたちなか市)
煉瓦を焼いた連房式登窯〈復元模型〉(あづまが丘公園 - ひたちなか市)
1855年(安政2年)
斎藤栄三郎(後の藤田半平)が小砂に呼ばれる。

一方で、小砂村では、烏山藩領志鳥村(現・那須烏山市志鳥)の鈴木窯で製陶に携わる斎藤栄三郎が、当時、小砂の庄屋であった大金彦三郎及び元庄屋であった藤田重衛門の招きにより小砂で登り窯を築きます。後に藤田家と親子のちぎりを結び、名を改めて土地を譲り受け、窯を移したとされています。
なお、1854年(嘉永7年)9月に藤田重衛門と半三郎父子が築窯の相談のために斎藤栄三郎を呼んだと記載する書物もあり、恐らくは大金彦三郎の御用窯一つだけよりも、より多くの人たちによって陶器が作られることが藩の利益になるため、藤田重衛門も築窯をすることに舵を切ったのではないかと思われます。そのため、3人が関係しつつも、斎藤栄三郎を呼んだのは藤田重衛門と半三郎父子である可能性が高いと推測されます。

1854年は12月に安政元年へと改元している。
藤田製陶所の略歴

安政三年創業、小砂焼のもう一つの原点 小砂焼は、幕末期に水戸第九代藩主である徳川斉昭公の意志を尊重して、地元の指導者たちが始めた瀬戸焼です。その原点は、当時の小…

明治時代〜大正時代

明治になってからの小砂は、大金彦三郎の御用窯を筆頭に、陶業の里へと変貌していきました。しかし、それも明治時代前半までで、その後は時代とともに窯元が減少していきます。

1869年(明治2年)
七面製陶所が廃止される。(推定)

七面製陶所は廃藩置県の時まで操業していたという史実がありますが、明治2年に水戸第十一代藩主である「昭武公の御巡覧をかたじけなくし、製造所の諸器を賜わる」と記録があり、藤田半平が昭武公から、七面製陶所の諸道具を御下賜されたことから、この時点で廃止されていたと考えられます。
1871年(明治4年)
廃藩置県が実施される。

小砂村は、同年7月に水戸県に属し、11月に宇都宮県に属し、1873年(明治6年)に栃木県に属するようになりました。
1889年(明治22年)
窯元が七軒となる。

小砂焼の職人数はこの時がピークで、後に減少したと記録されています。
町村制施行により、大山田上郷・大山田下郷・小砂村が合併して那須郡大山田村が成立しました。
1896年(明治29年)
村立大山田工業補習学校開校。

窯元の経営者が、腕を頼りに各地を渡り歩く「渡り職人」に製陶を依頼するようになり、技術の伝承が困難になったため、村衰退への危機感から技術者育成などを目的として、大山田工業補習学校が設立されました。
1898年(明治31年)
陶磁器講究所開所。

当時の小砂が抱えた衰退・技術継承の危機に対して、学校とは別に、研究と技術を導入するための拠点として作られたと推測されます。
1901年(明治34年)
村立小砂焼陶磁器業伝習所開所。

陶磁器講究所は、伝習所へと改組されます。このとき、会津本郷より岩田新吾らを招き磁器製作の指導を仰いだと記録されています。
1907年(明治40年)
下野陶器株式会社創立。

小砂焼陶磁器業伝習所は、下野陶器株式会社に吸収され役目を終えます。
下野陶器の趣意書には、
・小砂焼磁器は多年研究の成果であり、美術的価値が高く、競争力のある優良産物である。
・原料である小砂の陶土は質が良く、しかも安価である。
・この利点を活かせば内外需要に応える有望事業になる。そこで同志が集まり「下野陶器株式会社」を創立する。
・那須郡大山田村に工場を設立し、資本金で設備を整える。
・需要拡大に応じて工場を増設する。
・将来的には分業体制を敷き、専門化を進める。
・地方創生を図り、国内外へ販路を広げる。
と言った内容が記されています。

なお、1915年(大正4年)に解散しました。
1909年(明治42年)
工業補習学校を廃し、村立大山田陶器学校を新設開校。

陶器学校はおよそ17年間存続し、卒業生は統計数値で86名でした。卒業生の多くは小砂を離れ、名古屋や大阪方面で陶業に従事した者が少なくなかったとされています。
陶器業の不振により入学志願者が減り、1926年(大正15年)に廃校になりました。
1919年(大正8年)
関東化粧煉瓦株式会社 小砂工場が設立。

道路舗装の主流として化粧煉瓦の需要が高まり、かつて那珂湊反射炉の煉瓦に使われた良質な陶土があるということで、小砂の地に工場が立てられました。
小砂工場では、舗道煉瓦や壁面化粧用タイルが生産され、東京方面を市場としていました。銀座周辺の道路に使用されていたといいます。本社は東京市京橋区因幡町(現・東京都中央区京橋)にあり、東日本唯一の舗道煉瓦・化粧タイル専門会社として、先駆的な役割を果たした企業とのことです。煉瓦やタイルの品質も良く、ここでも小砂の陶土が活躍していました。
1923年(大正12年)の関東大震災により、帝都復興のための需要が急増し、特に1925年(大正14年)には、多くの注文を受けて供給を行っていましたが、小砂から東京までの輸送コストが高く、市場での価格競争力を次第に失っていき、1927年(昭和2年)に会社解散となっています。

なお、震災後には、道玄坂、九段坂、原宿駅前などに納入されたとの情報はあるものの、当時のライバル企業である大阪窯業株式会社や品川白煉瓦株式会社なども含めての情報となるため、関東化粧煉瓦株式会社の煉瓦が現代でも確認できる場所は、藤田製陶所の敷地内とかつて小砂工場があった場所の周辺のみとなっています。

平成以降

1990年(平成2年)
窯元が9軒に増える。

経済発展に伴う焼き物への関心の高まりなどがあり、藤田製陶所のみだった窯元は9軒に増えました。
1996年(平成8年)
小砂焼体験センター「陶遊館」開設
2004年(平成16年)
松並陶苑 陶主 岡 稔 氏、藤田製陶所 陶主 藤田 眞⼀氏が県伝統工芸士認定
2007年(平成19年)
市川窯 陶主 市川 勉 氏が県伝統工芸士認定
2011年(平成23年)
震災での被災などで窯元が4軒になる。
2022年(令和4年)
「第93回東京インターナショナル・ギフト・ショー春」に出展

2019年(令和元年)より設置された『とちぎの器』魅力向上研究会(海外展開)に参画。県内陶磁器産地(県指定伝統工芸品(益子焼・小砂焼・みかも焼)の3産地共同で)の魅力向上と販路開拓を目的として、産地の枠を超えた情報発信や、バイヤーを対象とした認知度調査などが実施されました。

現在に至る。

趣味の多様化など、大変な時代となっておりますが、現在は市川窯、朱雀窯、松並陶苑、藤田製陶所の4つで小砂焼を維持しています。