
安政三年創業、小砂焼のもう一つの原点
小砂焼は、幕末期に水戸第九代藩主である徳川斉昭公の意志を尊重して、地元の指導者たちが始めた瀬戸焼です。その原点は、当時の小砂の庄屋である大金彦三郎の御用窯が始まりです。ですが、小砂焼を広め、今日まで維持するきっかけとなった背景にはもう一人重要な人物がいます。
それが、藤田半平です。
藤田半平とは何者か?
藤田半平(ふじた はんべい)
江戸時代末期に、小砂村にて窯を開いた陶工。
彼は越中国井波町(現・富山県南砺市井波)出身で、もとは斎藤栄三郎という名でした。烏山藩領志鳥村の鈴木窯で製陶に携わっていたところ、小砂の元庄屋である藤田重衛門、半三郎父子により小砂村へ招かれ、後に藤田半三郎との父子契約(親子の契)を結んだことで、名を藤田半平としました。
当時の窯業の規模や活動期間を考えれば、半平の作は一定数存在していたと考えられます。しかし、現存が確認できる作例はきわめて限られています。現在、確実に所在が確認できる代表例は、ボストン美術館所蔵のモース・コレクション収録作と、東京国立博物館所蔵「染付梅桜文角徳利」(安政三年銘)の二例です。
数の多寡で測れば、残された作例は決して多いとは言えません。それでも、これらが海外の主要美術館と日本の国立機関に収蔵されているという事実は、半平の作が地方窯の産物として埋もれなかったことを示しています。制作地と年紀を明示した作例が記録され、保存され、現在も公的機関の所蔵品として扱われていること自体が、その歴史的意義を裏づけています。
ボストン美術館所蔵 - 四方壺
本作は後年、ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)所蔵のモース・コレクションに含まれ、20世紀以降の日本陶磁研究において、小砂焼の存在を国際的に示す数少ない一次資料の一つとなっています。
モース・コレクションの記録によれば、1854年、藤田半平は藩主の命を受けて小砂村に築窯したとされており、また、このとき半平は作品に製作年記及び場所をしるすよう指示されていたようです。
そして、窯は半平の息子に受け継がれ、しばらく続けられていたと述べられています。
エドワード・S・モースが編纂(へんさん)した1901年刊行の目録(右図)では、この作品は、『下野国小砂(Kosuna)において制作された角瓶』として記録され、制作年は安政三年と読み取られています。
この記述から、藤田半平(原典では Hanbei Fujita と表記)が開いた小砂の窯では、産地と年代を明示する意識的な制作が行われていたことが伺えます。
※モース目録では地名表記を Kosuna、人物名を Hanbei Fujita としていますが、いずれも現代の「小砂(Koisago)」「藤田半平」に相当します。
同コレクションには、作家銘を書いておらず、「小砂村において之を製す」とだけ記載されていました。これは、半平が藤田家の窯で作品を焼いたことと、その窯の持ち主である藤田家の考えであった、「藤田個人のものというよりはこれは小砂村の窯である」という名誉を重視したものとされています。
東京国立博物館 - 染付梅桜文角徳利(そめつけうめさくらもんかくとくり)
東京国立博物館にも半平の作品が収蔵されています。ボストン美術館の作品には松が描かれており、東京国立博物館のものは梅が描かれています。実物の所在は不明ですが、竹も存在するとの情報もあったようです。
『染付梅桜文角徳利 「安政三年於下野国那須郡小砂村製之」染付銘
小砂焼(栃木県馬頭町)は、水戸藩の命で嘉永4年(1851)に試焼を行ったという。嘉永7年(1854)頃、常陸の宍戸焼にいた越中礪波の陶工斎藤栄三郎が招かれると、本格的に作陶が始まった。この角徳利はその初期を示す作である。』
上記文章及び左記写真は、国立文化財機構所蔵品統合検索システムより転記しています。
初代・藤田半平の不屈の精神
半平が築いた登り窯は約10メートルで7段になっていたとみられています。現在では、ほとんど崩れ落ち、原形は見る影もありません。
形こそ失われましたが、そこには一人の男が魂を削り、土に預けた祈りのような熱量が、確かに刻まれていました。
半平の苦労話──台風に壊された窯
安政3年8月25日。
台風によって窯と工房が破壊された、という記録が残っています。
その窯が、すでに数回の火入れを経て性能を確かめていたのか、あるいは初点火を待つ『空焚き前』の極めて繊細な状態だったのかについては、諸説あります。しかしいずれにせよ、それがまさに実用の刻(とき)を迎えようとしていた、完成の絶頂期にあったことが想像できます。
そして、当時の技術条件と、登り窯という「土の構造物」の特性を重ね合わせると、史料の裏にある過酷な物語が浮かび上がります。
この時の登り窯は、傾斜地を造成し、石で基礎を組み、粘土を練って壁を築き、数か月かけて乾燥させる工程を経ます。これらはすべて人力です。規模にもよりますが、複数人の労働が必要であり、当時の施工条件から推測するに、半年以上を要しても不自然ではありません。
そんな状態で作り上げた窯が、一夜にして破壊されてしまった。
多くの人たちの協力により作り上げた窯が崩れ、積み上げた粘土がそのまま泥に還ってしまう。土の窯は、一度水を含んで崩れれば、「乾かして元通り」というわけにはいきません。被害を免れた部分をベースに修理を試みようにも、水を含んでしまった箇所が乾燥の過程で割れたり、仮に形ができあがっても焼成で割れてしまったりする。つまり、窯は修復不可能な状態でした。
史実から、半平は実に忠義に厚い人間であったことが伺えます。そのため、この時の心情を思うに、相当なショックを受けたに違いありません。
復旧の記録は、半平の行動が常軌を逸していたことを物語っています。
半平は、日の出前から仕事(恐らく農作業)に従事し、日が暮れてからは焚き火の明かりを頼りに、一人、窯の再建に向き合ったとされています。通常、半年以上の歳月を要する規模の築造を、彼はわずか数か月という短期間で成し遂げたとされています。
そこにあったのは、職人としての責任感を超えた、執念とも呼ぶべき凄まじい意志です。
一度は完成を間近に見た成果が泥に還り、それまでの全行程を否定された絶望の淵にありながら、彼は睡眠時間を削り、暗闇の中で再び土を練り続けました。再建された10メートル7段の窯は、物理的な法則や当時の常識を、一人の人間の不屈の精神が塗り替えた結果、そこに存在していたのです。
藤田製陶所 - 沿革
1856(安政 3)年 藤田半平により開窯
1890(明治23)年 第三回内国勧業博覧会で藤田半平が漬物甕(柿釉)を出品し、褒状を賜る
1898(明治31)年 藤田半平 歿
1927(昭和 2)年 関東化粧煉瓦株式会社の原土製造設備を引き継ぐ
1996(平成 8)年 小砂焼体験センター「陶遊館」を開設
2009(平成21)年 初代藤田半平が作っていたとされる江戸末期の白い焼物(磁器)の再現に成功する
2011(平成23)年 東日本大震災により登り窯が崩落する
2022(令和 4)年 「第93回東京インターナショナル・ギフト・ショー春」に出展事業者として参加
2023(令和 5)年 六代目陶主 藤田眞一が栃木県より功労者表彰を受ける(https://nakagawamachi-kanko.org/news/410)
2025(令和 7)年 七代目 藤田悠平がパステル調のモダンな色合いとなる新しい釉薬を開発














